第1講 講議資料


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 岡田の土蔵・蔵の大部分の土蔵は土塑造で、鉄筋コンクリート造が4棟、大改修の析、都合で土壁と鉄筋コンクリートとの混合となった蔵が1棟あります。
鉄筋コンクリート造4棟のうち1棟は、地下1階、地上2階の見るからに頑丈そうな蔵、1棟は、神社の拝殿を模した神明社の宝物庫、1棟は、2階建てで床下部分の外壁にレンガを巡らした、大きな蔵、そしてもう1棟は、外観は伝統的な蔵造ですが、1階部分に石を張り巡らし、2階部分がタイル張りになっています。この蔵はお金をかけた、しやれた感じがする建物です。
 土蔵と鉄筋コンクリートが混合になった1棟は、味噌醸造蔵で、大改修をした折、都合で鉄筋コンクリートを用いたとのことです。なお、未調査のなかにも2棟のコンクリート造があります。




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 以前、中谷の竹之内資郎氏より次のような話を伺ったことがあります。
 「天明の頃、岡日では、いまの中谷を中心に大火があり、一面焼けてしまったが、幸い慈霊寺の観音堂(当時の本堂)だけが焼け残った。そこで、大事なものを火事から守るためには耐火構造の土蔵がぜひ必要だと思い知った先祖は、早速土蔵の建築に取りかかったということだ。」
 調査を始めるにあたって、江戸時代の土蔵の数は竹之内家の2棟を含めてせいぜい7〜8棟だろうと思っていました。が、実際は11棟、12.8パーセントあることが分かりました。時期不明の中にもひょっとしてこの時代のものが何棟かあるかもしれません。しっかりした造作の土蔵の寿命は、結構長いものだと実感しました。
 木綿業の興隆期と重なる明治時代のものは、23棟、26.7パーセントと各時代を通じて最も多いことが分かります。木綿業の充実期に重なる大正時代は、18棟、20.9パーセントであり、地主や木綿業に携わる人々が競って土蔵を建てたと思われます。昭和時代の大部分は、第2次世界大戦前に建てられており、いわゆる本格的な土蔵の普請としては昭和27年が最後です。戦後の“ガチャマン”の時期には1棟の土蔵も建てられておりません。この時、時代はすでに費用がかさむ土蔵よりも安く建築でき、しかも実用的な倉庫にとって代わられていたわけです。