第1講 講議資料


B大きさ・規模

(間口×奥行×高さ《階数》=床面積)
◎規模は多種にわたるため、詳しい集約は省略しました。個々については記入例を参照してください。

コメント
 岡田のまちには現在、多数の土蔵・蔵があることはすでに説明しました。これを規模(大きさ)別にすると30余りにも分かれます。平屋建、総2階建、大小さまざまな土蔵や蔵が地区内に散在しています。古い街並み沿いには土蔵が割合に集まっていますが、全体としては散在しているため軒を並べるほどでもありません。
 最大の土蔵は、6.2間×4.6間で建坪28.5坪、床面積57坪あり、床面積52.5坪の3棟がこれに続きます。なお、最大の建坪としては、7.5間×4間の平屋建30坪があります。一方、最小の土蔵は、平屋建の3坪というかわいらしいものもあります。規模として最も多いのは、3間×2間×2階建の床面積12坪であり(2間×3間×2階建も含める)、この大きさが86棟のうち19棟、22.1パーセントを含めています。
 大型の土蔵には木綿蔵が多く、その昔、繁栄した岡田の木綿業に携わってきた問屋、織布業者、木綿商らの勢いを感じさせます。
 岡田に限らず、知多市全域に残る土蔵の規模は、総じてあまり大きくはありません。それは、いまの知多市を構成する基となった江戸時代の各村の主要な生業(なりわい)が、農業あるいは漁業であり、各村に庄屋や網元はいても、大型あるいは数棟の土蔵を所有する力量、ことに財力に富む者が少なかった証でもあります。富の蓄積なくして費用のかさむ大きな土蔵の普請はできなかったと言えます。
 ところで、岡田では江戸時代中期の享保年間以降、中島七右衛門家と竹内濠助家が江戸での販売権を持つ木綿の買継問屋として栄え、「知多木綿」「晒木綿」を長年手掛けてきた経緯がありました。その基盤の上に、岡田は明治中期から昭和30年代まで木綿織布の主要な生産地として、また集積地として、木綿業に携わる商工業者が活躍した土地柄であったため、いまも床面積50坪前後の大型の木綿蔵が5棟ほど残っています。
なお、床面積30坪以上の土蔵は、19棟、22.1パーセントを占めています。