第3講 講議資料


4.統計数値からみた農業の変遷

 農業は自然に左右されたり、政策として提出や転作させられたりもするが、社会的には好嗜に即応できない性格をもつ。生かさず殺さず産業のクッションか。
 しかし、都市農業は農地や労働力が工業と有機的に補完去れて発展する。カルフォルニア州が全米一の農業、工業の生産を保持していることはこれを物語っている。同様に、日本の豊田、安城、西尾の営農組合では、農業労働力を工業が吸収しているため、余剰農地を数人の営農組合員が大型化営農を実施し、共存している。

@ 昭和25年から50年間の展望は無理であったが、傾向は時代を背景に農家戸数・・・総数で1/6、専業で1/3、経済発展に追従できず離農した。
A 耕地面積・・・田では50%、畑では78%減。しかし、放棄された農地は大きな資源でありなが資産化して動きがとれず足を引っぱっている。
B 生産手段の農機導入・戦後の余剰電力は農電化・・・モーター、発動機が牛の動力に代行するようになる。昭和50年年代に歩行耕運機、田植機が登場する。岡田では小生が昭和40年、初めて二条田植機を使用し、注目された。
C 作物では三麦(大麦、小麦、裸麦)は高度成長経済と共に姿を消し、食糧難を救った「護国」しかなく、甘藷、芋類は昭和50年代には蔬菜化した。果樹ではみかんも生産過剰で、平成に入り減反奨励で減少した。新規参入のイチジクは転作物として導入。商品作物としての花きは昭和50年頃から数値になる。
D 畜産では、和牛は動力、草利用で役割を担っていたが、昭和30年。代農機に座を譲った。いまは養蚕を含めてみることができない。


5.岡田の農畜産物の生産

 昭和初期の金融恐慌で本町も昭和9年には農村経済更正助成規則に指定され、経済の多角化へとすすむ。

@ 葉タバコ・・・昭和10年、31戸、収穫1831 、5棟位の乾燥庫があった。
A 養蚕・・・昭和7年、桑園33ha、170戸、三期の収繭6298貫目。各期収繭100貫目以上は10戸。戦争による輸出ストップで桑園はイモ畑に転換した。
B 養鶏・・・昭和10〜17年、肥料の自給も含めて奨励され、500羽以上飼育する。
C フキ・・・150年前加木屋で愛知早生蕗が発見され(三倍体)、岡田では音吉氏が苗を入手し、栽培を始める。青竹、ヨシ蓑、ワラ囲による防寒栽培から、昭和33年有孔ポリ、同38年ビニールハウス栽培がはじまる。同41年にキタネグサレセンチュウによる大被害が発生。試験場はメリクロン苗による優良種苗供給事業を発足させ、いまや三期採り12t/10a時代を迎えている。
D ウメ・・・バラ科植物。畦畔の有効利用。豊凶の差が大きいので、組合は漬物倉庫2棟を用意し、昭和10年には大樽の漬け込みに入った。一農家で1,000貫目以上の収穫が10戸あり、つねに隣地佐布理と出荷競合があった。最盛期は昭和35年位までで、次の発展はなくなっている。
E ミカン・・・起源は呉服屋の土井氏が片手間で釜ヶ州で植栽したようだ。一方、竹内健三(岡健)氏が上石根を中心に大規模経営に乗り出し、昭和25年早生種の枝変りを発見。依頼を受け研修中の内海試験地で分析。優良系で息子の正男、農協の竹内新介氏と3名で各県へ試験依頼をしたが、登録はとれず、地域品種として“竹内温州”と命名、今日に至っている。カリフォルニア州における海外研修の経験では、オレンジの一品種の需要期間は15年となっていた。これは消費者ニーズと樹勢の効率から更新の必要があるが、岡田では一品種が100年も栽培されている。時代に適合していない。