厳寒の北極で生きる工スキモーの人たちは、
化学繊維のことを「嘘をつく毛」と呼びます。
「嘘をつく保全再生」「嘘をつく町づくり」が、
多すぎるのではないでしょうか。
★「嘘をつかない保全再生」「嘘をつかない町づくり」★
高い質の、歴史的遣構や古い町並みの保全と再生は、保全再生のために用いるほんものの素材や原材料を必要とします。また、きちんとした仕事のできる道具などをつくったり供給する人々も必要です。さらに、その素材や原材料と道具を使って、工法や技法、技術を、次の世代に伝え受け継いでいこうとする人々が不可欠なことは言うまでもありません。
いくら計画を立てても、予算を用意しても、その計画を実現する「ヒトとモノ」がなければも計画は一歩も前に進みません。
「嘘をつかない保全再生」「嘘をつかない町づくり」は、それらの「ヒトやモノの保全と再生」を伴いながら、つまりは、地域社会の仕組みそのものを保全再生しながら行われます。
古い町並みの、ほんとうの意味の保全再生とは、実は、地域の再生を意味するのです。だとすれば、そこで生きるひとびとの毎日の暮らしの保全再生と、ほとんど同じことを指していると言っても過言ではないでしょう。
歴史的遣構や古い町並み、古い農村集落の保全と再生による町づくりは、そこにある構造物や建造物の保全再生がテーマに行われるのですが、それだけではなく、その地域に固有の生態系や、地域の中で循環して完結する、ひとびとの暮らしの仕組み、地域固有の自然環境や風土、などの保全再生を必然的に伴うのです。
さらに、それらが有機的重層的に関係しあって、長い時間を積み重ね、歴史的な経過を経て熟成を遂げてきた、地域社会のしくみや地域経済、地域文化を保全再生することこそが、その土地のひとびとが、その士地で、現在と言う時を生きる意味と根拠になるわけですし、豊かな歴史に育まれて、伝統と文化の地に生きる自分たちの暮らしや、特別に選ばれてきたはずの地域社会の、大きな未来を、約束することになります。
残念なことには、上に例示した岐阜県美濃市でも、島根県大田市でも、広島県竹原市や新広島市、愛媛県南予地方でも、地域社会に希望をもたらすような保全再生の兆候はあっても、まだ実は上がっていません。町のひとびとの暮らしがつくり上げてきた、暮らしの文化も伝統も、祭りなどのような、短期的で直接経済効果のありそうなイベント型の季節行事の−部を除いて、ほとんど省みられることがありません。
石見銀山遣構や、和紙の美濃、塩の竹原などの、はっきりした歴史的特徴のある町の保全再生を考える時、残された遣構や古い町並みの保全再生はもとよりですが、膨大な量の木炭などの原材料、食料などを、日常的に恒常的に供給しつづけた、周辺地域の人々の存在や、その暮らしの内実を抜いては、その町の存在はありえなかったことを忘れてはなりません。過酷な毎日にもかかわらず、ぎりぎりに維持された循環する暮らし、−部に集積した巨額の富に支えられた、技術、技能、芸能、文化、学問などをも視野に入れて、ひとびとの暮らしがつくり上げた、暮らしの伝統、文化、社会的仕組みなどが、現代的意義を与えられて再生されることが、保全再生の真の意味だと言えましょう。
上に例示した町ほどに歴史的特徴がはっきりしていない町のほうが、実は多いのです。愛媛県の南予地方の小さな町々、栃木市、佐原市、長浜市なども、後者に属していると言えるでしょう。これらの町よりもっと、特徴が薄いと思える町もあるでしょう。
しかしよく調べてみると、それぞれの町には、それぞれの深い歴史があり、大きな積み重ねがあることは、すぐにわかります。また、その歴史や伝統や文化も、広域的でないために、それほど有名ではないにしても、その地域の人々にとっては、決して浅く小さいものではないことも、すく゛にわかります。
町づくりにとって、「その地域の人々にとってどうか」というのは、最も重要な要素です。ちなみに、地域の人々という言葉は、頻繁に使われるのですが、時に、地域の一部の商店主や工場主のことだけを、意味している場合があるようです。これは明らかに言葉の誤用と言うべきでしょう。