■第2回 知多木綿発祥の地岡田探索(講座と体験)
知多木綿の発祥、木綿産業の歴史を学ぶとともに、岡田の新しい魅力となりつつある『機織り』に挑戦してもらいます。
第二回 ワークショップアンケート

第2回講師
安藤嘉治(あんどうよしはる)( 生年月日 昭和9年10月22日)
       (元愛知県議会議員安藤梅吉氏二男として生まれる)
    学  歴 慶応義塾大学経済学部卒業(昭和33年3月)
    経  歴 昭和33年 3月 岡徳織布合名会社(現オカトク)入社
                 岡田工場長、副社長を歴任
         昭和49年 5月 日本綿スフ織物工業連合会会長に就任
         昭和62年12月 知多ロータリークラブ初代会長に就任
         平成 元年10月〜13年10月 知多市長
         現在      オカトク会長に就任



知多木綿あれこれ                  

平成14年12月15日

                           講師 安藤嘉治
1.知多地方の綿花は何処からきたか
一説には三河からと言われるが、正確には不明。綿以前は、麻、絹。毛は最後。スフ(人絹)は木綿の代用品として作られた。

2.貧農の歴史  夜なべ仕事
知多の農家の田畑は、1町歩(約100m四方)有る人はまれ。何かで収入を得る必要に迫られ、手機仕事もそのうちであった。
3.生木綿と晒
晒は伊勢神宮の秘伝。生木綿は、白子へ送り晒して江戸へ送られた。知多地方は、西海岸から発達(横須賀〜常滑)
4.産業スパイ  中島七右衛門
尾張藩の密命を帯びて晒しの技術を伊勢へ産業スパイ→知多晒が日本一になるもとをつくる。
5.尾張藩肝煎と竹之内家
江戸との取引に尾張藩が力を入れ、竹之内家が利権を持つ。
6.力織機の発明 豊田佐吉が先か  竹内虎王が先か
豊田佐吉=石川籐八と共同出資で明治31年乙川綿布合資会社操業。力織機の改良を進め、大正15年自動織機の完成。 
竹内虎王(竹内登喜一の祖父)=虎王式力織機明治31年特許証を得る。
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7.マンチェスターから日本そして中国
木綿の主力産地の変遷
8. 資本の蓄積  殿様と足軽
紡績=投下資本大(都市型)10大紡 殿様
綿織=投下資本小(産地型)     足軽
9. 内需と外需  保守と革新 
綿花買い付けにドルが必要なため国が管理した。
綿織物 内需−小巾 輸出−広巾(知多が早く広巾に変わり伸びた)
10. 岡田町のギルド的な性格
大正〜昭和初期、商工組合のまとまりがよかった。
明治27年 安藤梅吉(中七木綿で奉公)27才の時広巾織機24台で独立。
サイジング(のり付け機)も導入。能力給に改革。3交代制に変更。
11. 綿花の怪  綿糸の怪  綿織物の怪
綿花は種類で繊維の長短があるので均一な糸とするための混綿の技術
織物の規格の中でいかに利益をあげるか
・ 糸番手の使い方、タテ・ヨコの糸使いなどを工夫した。  
・ 綿布の重量制にドロを付けて目方を合わせた事も。
12. 繊維産業は平和産業
13. どうして岡田が木綿の中心地であったか
近藤紡、都築紡、丸武紡、などの外資が移入。
14. 木綿の種類と名称
15. 女工哀史はあったのか
最盛期の女工さん3000人余。地元の男性と一緒になった人もいた。
16. 戦前の最盛期
昭和12年ピーク生産時、岡田の総所得が山形県の総所得と同額になった。 
17. そしてみんななくなった
戦時中は中島飛行機の工場として提供
18. 戦後の復興
戦後、一から出直し。朝鮮戦争時、ガチャマン景気に1歩出遅れた。
19. ダブルリンクの怪
綿花の割り当て=10大紡+中小紡
20. 構造改善とその後始末
昭和41年体質改善を政府が行う。−1兆円投資
佐藤内閣 ナワを買って糸を売った。(オキナワ変換、糸の輸出規制)
知多半島の機屋→700軒から70軒に激減


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